仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

存在しているだけで価値がある

名著「嫌われる勇気」に以下のような部分があります。 
 
他者が「何をしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝のことばをかけていくのです。・・・例えば、あなたのお母さんが交通事故で意識不明の重体に陥ったとき、「何をしたか」などは考えず、ただ生きていてくれるだけでうれしいと感じるはずです。 存在のレベルで感謝するということはそういうこと。
 
今の自分に置き換えてみたとき、はたして存在のレベルで感謝できる人が自分の周りにどれだけいるか考えてみると、正直今の家族と両親、兄弟、親友ぐらいしかいないことに多くの人は気づくのではないか?でもひょっとしたら、心からそう思える家族が存在することだけでもまだ救いはあるのかもしれない。子供たちには、直接会って話ができなくとも、毎朝毎晩子供の寝顔をゆっくりみてから、今日も元気で過ごしてくれてありがとうと心の中で思っているし、妻がいるから子どもたちが安心して暮らしていられるなど、妻に対しても存在のレベルで感謝している自信はある。自分の両親に対しても年をとるごとに死期が音を立てて近づいており、元気で生きていてくれればそれでいいという気持ちが年々強くなっている。
 
一方で会社関係で繋がっている人に存在のレベルで感謝できる人はいるだろうか?正直社内、社外のお客様にも何かしらの見返りを期待している時点で私の愛は非常に限定的な気がする。存在のレベルで感謝できるような人はまずいないと言って間違いないと思う。そう考えると、仕事とプライベートを分けているようでなんだか自分がつまらない小さい人間のような気がする。
 
40を過ぎた今、これまで与えてもらったものを今度は自分が与えていく番だというのが私の人生折り返しの宣言だが、家族、親族のみならず、会社、地域のコミュニティ、もっと言うなら広く社会に与えて行く為には、もっともっと愛の力を上げて行く必要がある。
 
その為に心がけることとして、このようなことが書かれている。
他者を見る時に自分の理想像から減点法で引き算的に見るのではなく、誰かと比較したりせずありのままを見て、そこにいてくれることを喜び感謝する。つまりゼロの地点から出発し、まずは存在そのものに働きかけることが重要だ。
 
すごく超越していて現実的ではないかもしれないが、まずは「自分の理想像から引き算して評価」しないように意識してみようと思う

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