仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

偶然の出会い -「懐かしい人」とは誰のことか-

首都圏にいても偶然にばったり会う事がごくたまにある。以前ブリヂストンというタイヤメーカーにいた時に上司だった人に偶然出くわした。千葉の幕張メッセの広い展示会場の中でだ。見つけて声をかけたのは私だ。ブリヂストンにいたのはもう10年程前のことになる。私が東北支店に在籍していたとき、その方(以下M社長)はちょうど東北支店長だった。組織上間には課長が存在していたので直属の上司ではないのだが、当日私が担当していたお客様は古くからの大得意先が多く、また課長が敬遠したがる癖のある得意先が多かったこともあり、当時の支店長とはよく行動を共にしていた。

今でもそうだが、自分のやりたいことしか一生懸命やれないタイプの私は大企業のように、組織や方針がしっかりしているような会社ではなかなか難しく、やるべきことがあっても真剣になれない子供っぽさがあり、当時はその支店長や課長にもよく叱られたものだ。本当に迷惑をかけたなあと今では思えるようになっていたので、今日お会いして本当に嬉しく、懐かしい気持ちになった。
M社長の話では、つい先日も東北にいた時に、私と支店長がよくお邪魔していたお客様とそれも8年ぶりぐらいにあっても話をした際に、彼は今何をしているのかと丁度私の話になったというのだ。仕事上では一緒に何かに取り組んだという実績もないのだが、そんな私でも覚えていてくれてありがたいなあと思った。
 
以下、藤原和博著「味方を増やす技術」から引用。
私たちは皆、人の意識の影響を受けて生きている。人の意識と自分の渦巻の中で発言している。そこには自分の考えなどないのだ、と極論することもできるけれども、逆にいつくもの自分がいて、いくつもの自分の考え、自分の意識、自分の存在のかけらを、そこここで育んでゆく態度をとることもできるだろう。
 さまざまな出会いを通して、自分とだれかの共同作業としてのあたらしい「意識のかけら」が創られ、そして周囲に振り撒かれる。のちのちになって、それらを一つ一つ拾い集めている自分を楽しむようなとき、私たちの心に懐かしい気持ちが起こる。ジグソーパズルの断片を紡ぎあわせていった末に、全体像が見えてくる、あの瞬間だ。
 懐かしい人とは誰のことだろう。それは、私のカケラを一杯もってくれている人。自分自身が懐かしいと感じるのは、そんな置き去りにしてきた自分自身のカケラなのかもしれない。