仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

近視になるということの意味について

出勤時の出来事。毎朝四ツ谷駅に到着するのは大体7:45頃で、これから電車に乗ろうとする電車通学の小学生とすれ違う。四ツ谷近辺に住んでいる事もあり、凄く都会的で、ランドセルには防犯ブザーの様なものをみんなが付けている。うちの長男とは全く違う出で立ちだ。

今朝、小学校1〜2年生と思しき女児が四ツ谷駅の改札に近いあたりで立ち淀んでいた。改札から出てまっすぐ会社に向かう大人たちの波に抗って誰かを探しているような不安がその子には見て取れた。同じように感じて、通り過ぎた後に何度か振り返るおばさんやおじさんもいた。

私個人的には、その子の「不安」の程度は、「今にも泣き出しそうな」という緊急性の高いものという風には感じなかったのでスルーすることにしたのだが、私より先を歩いていたそのおじさん、おばさんは何度も振り返り女児の状況を伺っているようだった。

彼らはきっと、その女児を「助けてやりたかった」、「不安を取り除いてあげたかった」のだろうが、瞬間的なアクションに出られなかった。多分そうする事で多くの通勤する人たちの視線を集めることに少し抵抗があったからではではないだろうかと思った。

同じようなことは沢山ある。四ツ谷駅の近くには目の不自由な方が通う施設があり、白杖を持った方が多い。彼らは道路上の点字ブロックをたどるが、点字を大きく外れて困っている人に出くわすことがある。気付いた時には既に誰かが点字の場所に案内しているのだが、時々声をかけるにも掛けられず、通り過ぎた後に状況だけ伺っている方を見ることがある。こういうシーンに出くわすと、今朝と同じように、手助けをする事で他の通行人から受ける視線がアクションを淀ませるのではないかと考えてしまう。

確かに視線を集めるのだが、それはむしろ称賛の意を表する視線が殆どであり、行為としては褒められることだとわかってはいるが、本人にしてみれば視線を集める事で返って「きちんとやらねばならない」という意識が働き、うまくできるかどうかの不安が、アクションにブレーキをかけてしまうのではないかということだ。


アザラシやオットセイは、手がヒレ状になっていて主に水中で生活する動物という印象を持つが、彼らの頭蓋骨はネコやイヌと近く、そのルーツは陸上で生活をし歩行型だったと考えられている。長い年月をかけて水中生活に便利なように、環境に「適応」してきたと生物学では考えられているのだ。

生物は回りの環境に適応すべく、身体そのものや機能が変化していくものだとすると、「近視」は実は周囲の目を意識することから受けるストレスを軽減するために、目の機能が進化した(退化した?)のではないか!目から入る情報によってヒトが受けるストレスが一定量に達した場合、視力を弱くさせるように、長い年月をかけてDNAにプログラムされてきたのだ。きっとそうに違いない。その証拠にメガネを外して1日過ごしてみよう。見えないことでどうしても困ることはあるが、妙にストレスのない世界を実感できるはずだ。 

とまあ、時々おかしな事を考えては自分一人悦に入っている私ではあるが、ただ単に自意識過剰なだけではないかと、時々嫌になる事もある。今より人目を気にせず、のびのびと発言し行動したいなあと切に思う。勿論メガネをかけたままで。

そういえば、今朝女児の状況をしきりに気にしていたおじさんもおばさんもメガネはかけてなかったなあ。(きっとコンタクトに違いない!)

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