仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

金魚すくいではダメな話

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先週は出張続きで、土曜日も名古屋で営業マン全員を集めての会議があったので日曜日しか休みがなく、そろそろ年齢的にも無理がきかなくなってきていることもあり、今日は朝から体力的にしんどいなあと思っていた。

そんなところに今日は我が社の社長が久しぶりに上京し、夜は泊りがけで飲み会の予定だったので、余計にしんどさに拍車がかかっていた。予定通りなら私の上司と先輩1人と社長の四人での飲み会だったのだが、私の上司が出張から帰れず急遽参加できないことになったので、実質3人での飲み会になった。
 
飲み会メンバーの構成をいうと、社長のお目当て(一番飲みたいと思っている人)は私の上司で、もう1人の先輩は、社長の親戚に当たる人でしょっちゅうコミュニケーションしており、取り立てて今日新しい話題があるわけではない。だから日頃あまり話をすることがない私が一番フレッシュな人間になり、必然的に会話的な負担が大きくなる。そんなことを一日中考えていたから体力的な疲れに、精神的な疲れが乗っかってさらにしんどかったというわけだ。
 
そんな飲み会でも酒がそこそこ進んでくると私もそれなりに楽しくなってくる。周りの雑踏のなかで、社長がこんなことをを言っていた。「金魚すくいを教えてもしょうがない」。私には意味がよくわからなかった。でも分からないなりに、「難しくてわかりません!」という答えを返した。
この場合、サラリーマン的に媚びる感じで適当に返しても、多分投げかけたほうは物足りない。そんなことはわかっているし、でも投げかけられたことの真意が分からなかったから、言い方も含めて素直に表現したのだ。この手の人が、わからない事を知っている事のように話すのが一番嫌いな事はよくわかっている。だからこのような場合、単語や語気に気を使うのは、目上の人への最大のリスペクトだ。サラリーマン的な人間関係とはこのようなことの連続だと思う。
 
しばらくして、「金魚すくい」の真意を理解しているもう1人の先輩が、その意味について解説を始めた。「人を育てる」という事についてよく話題になる事がある話だが、こんな話を聞いた事はあるだろう。本当にその人の事を思うのならば、「魚釣ってあげる」のではなく、「釣り方を教える」という事が大事だという話だ。その話を前提にして考えると、「金魚すくい」の真意が理解できる。
 
つまり、ー 釣れるべき環境と釣るための道具がきちんと与えられたなかで、釣っても食べられない金魚をいくら釣ってもお腹は膨れない ー という事なのだ。上記の釣り方を教えるというのはよく言われる話だからわかってはいたが、これはもう一段推し進めた話だ。金魚をたくさん釣る事にそれなりの達成感はあるかもしれないが、腹は膨れない。企業はその存続のため、利益を上げながら継承されていくべきものであり、そのためには食えない金魚の釣り方を教えても意味がない。最低限食べられる魚、できれば大変美味しい魚を釣ることを継承していかなければならない。金魚すくいを教えてもしょうがない」、この一言にはこんな意味が含まれていたのだ。
 
考えようによっては、経営者が社員を洗脳するために程の良い、奇をてらった言葉かもしれないが、私は素直に咀嚼しようと思う。