仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

人生の分岐点 ー久々の仙台ー

昨日と今日で久しぶりに仙台に出張した。住んでいた頃は、タイヤメーカーの社員だったが、今は印刷会社に勤めていて、食品の会社を相手にしていることもあり、仙台駅を新鮮な気持ちで見ることができた。

 
一方で、住んでいたのはもう10年も前の話なので駅前がどれほど進化したのか結構楽しみではあったのだが、ほとんど変わっていない光景に少し残念な気がした。大きく変化したとすれば、空港までモノレールのような公共の交通機関ができたことと、長町(仙台駅から電車で10分程度の場所)が大きく開発され、新しい街へと変化したことぐらいだろうか。都内はいろんな場所が開発され、どんどん変わっていくのに、仙台の変化は規模もスピードも意外にゆっくりな感じがした。まあ震災で大きく被災した場所を訪れたわけではなく、ごく部分的な印象ではあるが。
 
実は仙台に住んだ2年弱は、私の人生の大きな分岐点だ。この期間にいろんな場所にいき、色んな体験をし、色んな人と出会い、色んなことを考え、そして人生の一大決心をした。公私ともにこれまでお世話になったものから全て離れ、主体的な人生を送るためにリスタートした場所なのだ。藤原和博さんの言葉を借りると、そこには私が残したかけらが沢山残っている。
 
それまでの人生はどちらかというと長いものに巻かれて生きているという感じだった。仕事は普通に面白くない程度だったが、組織が官僚的で全く馴染めなかった。ただ、世界一のタイヤメーカーの社員であったし、その点で非常に安定的だった。また、プライベート面で、当時の奥さんは外資系一流企業に勤めるキャリアウーマンで20代で大金を稼いでいた。当時の私のほぼ倍程度の年収があり、お金には全く困っていなかった。が、奥さんを始め奥さんの家族の意向が、私達夫婦の方向性を決定していて(というよりは私が彼らの意見に対して異論を主張する勇気がなかっただけだが)、私は背伸びをして頑張って合わせていた。
 
公私ともにそんな状態だったので、そんなことが何年も続くはずもなく、一大決心をして仕事も辞め、奥さんとも離婚をした。主体的に生きるなどというとなんとなく響きがいいが、実際は嫌なものから逃げ出した的な要素が濃く、大人としてしっかりとした手続きを踏んでけじめをつけたというわけではなく、かなり強行的に実行した部分も多い。
 
あれから10年近くたつが、一つだけ確信していることがある。それは劇的に幸せになったということだ。その源泉は幸せにしてあげたいと思う家族があり、また家族との関係が(至極普通のことだと思うが)対等であるということだと個人的には思っている。この10年の中で、仕事面ではまだうだつが上がらない状態が続いているが、精神的な土台をきちんと構築できた。愛情を注ぎ、注がれる身近な関係がきちんとある。この幸福の源泉を構築するための10年だったと考えれば上出来だ。
 
いつものことながら、藤原和博氏「味方を増やす技術」にこんな記述がある。
(以下、藤原和博著「味方を増やす技術」からの引用)

「愛情」というのは、働きかけのことだと思う。自分の持っているエネルギーを相手に及ぼしていく行為だ。人間を愛するというのは、自分のエネルギーを他の人にむけて影響を及ぼしてゆくこと。-中略ー だから愛することにはエネルギーがいる。エネルギーの生産工場が自分の中にしかないと考えると、一方的な提供は随分疲れる行為だ。おそらくそのエネルギーは、同じように他の人や自然や動物や、あるいは仕事そのものからもらい受けるものでもある。そのような循環系と考えた方がよさそうだ。

個人の幸福はエネルギーを及ぼす範囲や程度、同時に与えられるエネルギーの範囲や程度と 大きく関係しているのだと思う。

 

10年ぶりに訪れた仙台でふと昔のことを考えた。今度は家族でまたこの地のを訪れ、随分前にこの地に残してきた私自身の沢山のかけらを拾い集め懐かしむとともに、沢山のエネルギーをもらったこの地に改めて感謝したいと思う。