仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

弟と姉

久しぶりに姉と晩御飯を食べた。姉が東京に勤めはじめてから数年が経つが、二人で都内で食事わしたのは実はこれがはじめて。私は四ッ谷に勤務していて、姉は日本橋辺りに勤務しているので、非常に近距離にいながらに実現までは2年半の時間を要した。

私の人生も一筋縄ではなかったが、姉の人生も私に勝るとも劣らず一筋縄ではなかった。姉は京都の大学を出て大坂で就職をした。確かジュエリーを販売する大手の会社だったはず。若いうちは店舗で販売経験を積むのが普通で当然姉も何年かは販売員を経験した。

その後、理由はよく分からないが、地元淡路島のとある工場に転職をした。いわゆるUターンというやつだ。地元では自転車で通えるような近くの会社で勤務することになった。工場ではこれまで経験のない経理の仕事に従事した。経験は無かったが、仕事をはじめて面白みを感じたらしく、経理の勉強を独学ではじめ、いつの間にか税理士を目指して週末に専門学校に通うまでになっていた。

税理士の資格というのも簡単ではなく、実務経験の上に、パスすべきむずかしい試験が5つもあるというようなことも聞いた。何年かかったのかは聞いてないが確か2つまではパスしたようだった。

しかしながら、ふと都会に出たいと思うようになったのか、あるときから転職活動をはじめていた。いきなり横浜の税理士事務所に面接にいくと言うようなことを聞いたときは正直面食らったことをよく覚えている。すでに40歳を目前にしている時だったからだ。しかしながらすんなりと面接までパスし、すぐに横浜に越してきた。給料も劇的に上がったということで、これまで一生懸命税理士の勉強してきたことが身を結んだようだった。

税理士事務所では、経理実務や知識だけではなく、ジュエリーの販売員をやっていた経験とパーソナリティーを評価されたようで、実際には内務だけではなく、クライアントの経営者との面談も多かったようだ。

結果的にそれが重責になったのか、一年後くらいにはうつ病を患ってしまい、休職することになる。田舎の経理担当とは仕事のスピード感も責任の重さも、個人の負担もまるで違うから無理もない話だろうと思った。結果的に復帰には一年を要したが、同じ仕事に戻っても結果は同じになると考えたのか、別の方向を模索して転職活動を始めた。

転職を決めたのはそれからすぐのことだった。ある食品関連の輸入販売会社が、業務拡大のために経理担当を募集していたのだ。すんなりと転職を決めその会社で働きはじめてすでに2年半年が経過しているそうだ。

工場での豊富な実務経験、税理士試験を一部ではあるがパス出きるレベルの知識、それとうつ病を患いはしたが、経営者レベルとの経理面での面談経験等、今の会社としてはほしい人材だったということだ。

姉は今仕事が楽しいとさらっといっていた。人の少ない会社だから担当業務は幅が広いが、チャレンジングな会社だから新しいことが次々に起こる。が、それはトラブルではなく、会社が大きくなるための前向きな業務。たとえスムーズにいかなくてもそれは失敗ではない。そんな状況も仕事が楽しいと思える理由ではないかと感じた。

 姉は今43歳、田舎から出て来て数年がかかったが、今や社会的にも東京でのポジションを確立した。しばらくは安定した生活が送れると思う。同日姉がいっていた。「今の仕事ではこれまでの経験が何一つ無駄になっていいない。」 理想を声高に求めず、目的地への最短距離等考え過ぎずに、今できることを愚直にやり続けた当然の結果なんだと思う。今日改めて凄いやつだと尊敬した。