仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

チャレンジ精神の源泉 ―何故リスクを恐れないのか―

 

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昨日久しぶりにうちの奥さんと語り合った。内容は、自分の子供時代のこと、そして子育てを経て思い出した自分の子供の頃のこと。

そのなかで興味深い発見があった。私は子供の頃のこと、特に小学校低学年の記憶が全くない。楽しかったことも、面白くなかったことも、いずれもほとんど覚えてない。

ずいぶん前にその事を奥さんに話したら、奥さんは「嫌だったことは自分の記憶の中に閉じ込めてしまっているだけで、何かの拍子にふと思い出されるものだ」といっていた。

なるほどそうかも知れないと少し納得してから早二年。あれから一度たりとも苦い記憶を思い起こしたことはない。最近になってふと思うに、私の小学校低学年時代は、大きな精神的な支障もなく、のびのびと過ごせていたのではないかと。

一方で奥さんのことを少し詳しく聞いてみた。一般的には、子育てを経験することで、自分がいかに可愛がられて育ったかを実感し、親にたいして感謝の念が生じることが多いものだが、うちの奥さんの場合そうでもなく、(子育てを通じて)むしろ自分が子供の頃に封印したであろう怖い経験や、嫌な経験が蘇ったのだそうだ。

私は奥さんの幼少期のことはしらないし、これまでそんな話をしたこともなかった。ただ、奥さんの両親がうちに泊まりがけで来たときに、信じられない行動をとったこと等を考えるとなんとなく想像もついた。私とは対照的にかなり抑圧された子供時代を送ってきたのだろうと思う。

そう考えると親と縁を切りたいなどと本気で考えている奥さんを、強ち否定することもできないかなと、私の考え方も大きく変えざるを得なくなるような会話であった。

さて、話が少々脱線したので元に戻すが、上述の通り幼少期をのびのびと過ごしてきた私は、大人になっても天真爛漫というか、子供っぽくまっすぐな部分があり、新しいことにも比較的スムーズにチャレンジできる。慎重になるあまり行動を起こせないということがないのだ。一方で私の奥さんは、本当に慎重派で、慎重になるあまりあれこれと考えてしまって、なかなか行動に移せないところがある。 どちらもそれなりに良い点があるが、それでもリスクをとって行動を起こしたほうが、仮に失敗したとしても、後々に得るものが大きいのではないかと思っている。

その際に最も必要になるのが、この「リスクを恐れないマインド」ではないかと思う。ならばこのマインドはどのようにして醸成されるのか。私は、抑圧されずのびのびとした幼少期を送ることが、少なくともその必要条件になると考えている。愛情を十分に受け、親に守られて育った子供には絶対的な安心感が育まれる、その安心感こそがリスクを恐れないマインド、つまりはチャレンジ精神の源泉なのだと考えているのだ。

私の好きな藤原和博さんの著書『味方をふやす技術』のなかにこんな記述がある。-以下は引用ー

一体家族という単位は、いかなるものを核にして存在すべきものなのだろう。-中略ー 目下のところ、それはどうやら「だいじょうぶ」という言葉ではないかと考えている。いろんなことがあるけれども、家族の許にかえって来たならば、とりあえず「だいじょうぶ」といってあげる。家族とは、はかなく脆い人間の、そういった最後の”隠れ家”だ

その通りだと思う。今のところ私の子供たちものびのびと育っているように思える。チャレンジ精神にあふれ、行動に移せる大人になってくれればなあと思っている。