仏(ほとけ)と言われる私のエッセイ

テーマはバラバラですが、ちょっとしたことを私なりに掘り下げて書いています。喜怒哀楽のある豊かな今後に向けて想いを綴りました。最初は音楽紹介から入りましたが、少しづつ変化してきたのでブログタイトルも変更します。

形見

小学生の頃とか、10歳以下の記憶となると殆どない私だが、ある方に可愛がってもらったことはよく覚えている。多分幼稚園ぐらいのころから小学校高学年ぐらいまでのことだったと思う。

その方は私の近所に住んでいて、旦那さんと二人で生活していた。二人には子供がいなかったので、幼稚園ぐらいの私は本当に可愛かったのだろうと思う。年齢は当時50代で、旦那さんは地元の警察のそこそこ偉い方だったらしく、警察を引退してからは地元の自動車教習所の所長職につき、私の父親も当時その旦那さんに誘われて、教官になったということだった。だから私たち一家は、その方のことを「奥さん」とよんでいた。ただし、ものごころつく前の私にとって「奥さん」という呼び名はむしろあだ名のようなものだった。

 

小学校1年生ぐらいの時に、彼ら夫妻が車で30分ぐらいの場所に引っ越した後も、夏休みになると、1週間程度その夫妻の家に泊まりに出かけていたぐらいだから、私も本当に好きだったのだろうと思う。

好きといっても、その方は本当に優しかったし、私が欲しいものは何でも買ってくれたし、好きなものばかり食べさせてくれたから、子供のころの私が好きになっても当然だろう。当時の私は本当に子供のように可愛がられていたと思う。

 

さすがに小学校高学年になると私も少年野球を始めたり、友達と遊ぶことが多くなり夏休みにも泊まりがけで遊びに行くことはなくなったが、それでも時々家族とともにその夫妻の家を訪れ、家族ぐるみでの付き合いは継続していた。

 

旦那さんが亡くなったのはいつ頃だったか記憶はないが、私が就職したころには、その方は一人で生活するようになり、病院などに行く際には、私の母親が面倒をみていた。さらに、私が社会人になって数年目にはぼけ始めて、ある時私が帰省した際にお邪魔しても、私が誰か分からないという状態にまでなっていて、それ以降私も「奥さん」の家にお邪魔することもなくなった。

 

「奥さん」が亡くなったのは、まだ2年程前だ。年齢にして91歳だったと思う。平日の朝母親から連絡があり、亡くなったことを聞かされた。私はその時ちょうど通勤途中だった為、電車を降りて詳細を確認すると、すでに前日には亡くなっていて、当日が葬式の日だという。自宅は兵庫県の淡路島にあり、すぐに新幹線で向かっても葬式の時間には間に合わないことは分かっていたが、仏壇に線香だけでもかまわないと思った私は、一旦家に帰宅し、準備をして帰省した。

 

新幹線、高速バス、路線バスと乗り継いで、午後3時ころ漸く「奥さん」の自宅に到着し、遺影に向かって手を合わせてお別れをした。そして一息ついた後すぐに、その場に居合わせた知らない方から、「誰かと思ったら、写真の子か!」と言われ目にしたのがこの写真だ。私の年長時代の発表会の写真だ。

「奥さん」は私が大きくなり、疎遠になってもこの写真をずっとテレビの上に飾っていた。私にとっては写真の存在すら忘れていたが、「奥さん」にとって私は、この時から時間が止まっていたのだろうと思う。写真を見た瞬間に昔可愛がってもらった時の記憶がよみがえってきて、私はその場に泣き崩れた。

 

自分の祖父母の葬式等にも殆ど参列していない私だが、「奥さん」の葬式には心から出たいと思った。親が事前に知らせてくれなかったので、葬式の場でお別れを告げることはできなかったが、直接自宅に出向いたからこそ、この写真を見ることができた。

この写真は、「奥さん」が生前一番大切にしてくれたものだと思う。写真に写っている私は、実の子供ではない私なので棺にも入れてもらえなかったのだろう。

 

私の家には、子供たちの写真や家族の写真がリビングや廊下に沢山並んでいる。私は「奥さん」の家から持ち帰った小さなその写真を、子供たちの写真の脇に一緒に並べておいてある。写真に写っているのは、35年前の幼少のころの自分自身だが、なぜか自分の子供のように愛おしく感じている。